院長プロフィール
初めまして、さかとう整骨院の阪藤 賢一です。
じつは私、大学を出て就職し、脱サラで治療家になりました。
どんな人に治療してもらうか?って
とても気になりますよね。
自分の体をあずけるんですから
重要なことです。
・私はどんな人なのか?
・なぜ治療家を目指したのか?
・どのような想いで治療をしているのか?
を書かせていただきます。
少し長くなりますがお付き合いください。
経歴
・大阪商業大学 商経学部卒
・株式会社PHENIX勤務
・明治東洋医学院 第一柔整学科卒
・柔道整復師免許取得後、大阪市内の整骨院で10年勤務
・2007年10月 大阪市都島区に さかとう整骨院 開院
資格
・2003年 柔道整復師
・2000年 キネシオテーピング指導員
・2009年 介護支援専門員
私はどんな人なのか?
5人兄弟の長男です
姉と弟3人の5人兄弟、小さな家に7人の大家族。貧乏でしたが、子供達にはすごく優しい両親のもとで育ちました。

幼稚園の入園式
父は自営で建築の仕事をしており、日曜祝日も休みなく、たまの休みは雨の日くらい。真面目で不器用な父で、仕事の愚痴もほとんど聞いた事がありません。
「親の背をみて育つ」でしょうか。
休みなく働くことに、あまり抵抗がないのは、そんな父を見ていたからなんだと思います。
口出ししない父
父は、私がやりたいことを、やりたいようにやらせてくれました。私がやりたいことを相談というか、事後報告すると
「賢一がそうやって考えるんやったら、父さんはそれを応援する。」
サラリーマンを辞めて、治療家になると言ったときもそうでした。そう言って、いつでも口出しせず私のことを応援してくれました。
私がサラリーマン時代、休み無く働いて体力的にボロボロだったのを見かねて、自分が仕事に出る前に「寝といたらええからな」と担当の店まで、車で送り届けてもらったことも何度もありました。
降り際には毎回、
「何時に迎えに行ったらいいか電話してきてくれたらええからな」と当たり前のように言ってくれる父には感謝しかありません。
要領よく、ほめ上手な母
母は父に比べて少し要領のいいところがあって、少し大ざっぱな所があります。
子供5人(姉、男4)も育てようと思ったら、細かい所まで言ってられなかったのでしょう。
少しおちょうし者で参観の時には、兄弟も多いので私のところには10分くらいしかいないのですが、こっちに向かってピースしたりと、短い時間で強烈なインパクトを残して去っていく母でして
「阪藤のお母さん来てるで!」と冷やかされ、私としてはなんとも恥ずかしい、クラスメイトからも名物母ちゃんでした。
ただ、そんな母ですが、すごくほめ上手なんです。私が得意な絵を描いたり、表彰された習字の作品を毎回絶賛してくれました。
他人と比べない
レギュラーにもなれず試合に出ない息子の野球の当番にも毎回来てくれて、他の子と比べてどうだとか、なんてこと一度も私に言わない。
また母のすごい所は、いつのまにか同級生の親からお古のバットや服をもらって来るのです。
当時の私はそれが貧乏くさくて恥ずかしく嫌でした。
悪い言葉で言うとずうずうしい。他の誰がなんと言おうとおかまいなし。
子供のために恥ずかしいことも平気でやってくれる母親でした。
キャッチボールが好きだった。
野球が好きで、小学校三年から小学校のチームに入りました。ですが3月生まれで体も小さく、レギュラーにはなれず万年補欠。
試合に出たのも、代打で数えるくらい。
それでも卒業まで頑張ったのは、キャッチボールが好きだったんです。
(前列右端)
こんなことを思いだします。
私が低学年の時、近所のお兄ちゃんからお古のグローブをもらったのでキャッチボールをしてみたいと思い、父の帰りを待ちました。
夕方、父が帰ってくると家に入るのを止めて
「これ、もらってん。一緒にキャッチボールしよ!」と言ってキャッチボールを始めました。
左利きの父はグローブをさかさまに持ってボールを受けてくれました。
「賢一はキャッチボールするのうまいな~」
とおだてられながら、お父さんとキャッチボールをするのですが、ボールを受ける時に何とも言えない優しさと安心感を感じていました。
いつのまにか母や弟たちも出てきて、みんなで交代しながらボールが見えなくなるまでやっていました。すごく楽しくて、いつまでも続けていたいなと思った瞬間です。
私が野球が好きになって、野球をやりたいと思ったのは、このキャッチボールをやった感覚、空間が楽しかったからです。
お金はなかったけど・・・。
思春期は、兄弟が多いこと、貧乏なことにコンプレックスを持っていました。
ですが長男なので立場上、弟たちの面倒をみることも多く自然と教えたり、応援することが身につくようになっていたように思います。
両親から教えてもらった「応援」すること
自分のことより、両親や家庭環境のお話になりましたが、いつのまにか両親から教えてもらったことが、今の私の仕事や家庭においての考え方、人との接し方の礎になっています。
バタバタしながらの毎日ですが、仕事に家庭にみんなを応援できるように頑張っています。
私がなぜ治療家を目指したのか?
スポーツメーカーに就職
大学卒業後スポーツメーカーに就職。
ウィンター事業部の配属になり、未経験のスキーやスノーボードの営業を担当することに。

プロスノーボーダーと 1995
週80時間労働
大学スキー部出身の先輩も多く、バリバリの体育会系の職場でした。
仕事のハードさも冗談ではなく、人の2倍は仕事していました。当時は質ではなく量でしたが・・・。
日曜祝日も休みなく、毎日終電まで。数えてみると週80時間。今でしたら完全にアウトですね。
がむしゃらな3年で営業トップに
1年目から大阪で最大級のスポーツ店の担当になり、毎日お店に出向き、週末は販売応援。
パソコンもネットもない時代でしたから、手書きで自社他社の売り点を分析。
売れ筋商品を社内の誰よりも早く見つけ、販売応援のあと会社に帰り、夜のうちに自分の出荷できる口座に移して、月曜朝イチ出勤で出荷。

会社員時代 1997
がむしゃらに頑張った甲斐もあり3年目には社内の売上成績トップに。
これ以上はないってくらい仕事(時間)しましたね。(笑)
営業マンとしての苦悩
しかし、この頃をピークに市場はスキーからスノボへとトレンドの変化もあって、売上も伸びなくなってきたんです。
「この商品は残りそうだな…」と思っていても会社の売上目標がありますから、お店と交渉して商品を買ってもらう。
でも結果は予想通り、在庫として残ってしまう。店の利益も減り、倒産する店も出てきました。会社が売上を上げて生き残って行くためには仕方ないと言い聞かせていましたが…。
当然、店の人の信頼を失いますよね。そんな自分の会社だけ良かったらいい、という営業をしている自分にだんだん疑問を持ちだしたんです。
お盆明けから体育の日まで休みなし
終電まで残業で、土日も休みもなかったので、体力的にも限界で、ここまでは家族のサポートがあったのでなんとか続けてこれたけど、将来自分が家庭を持った時、こんな生活は続かないなと考えだしました。
入社してから5年間、お盆明けから体育の日まで一日も休みなし。
しかも深夜までの残業が当たり前。週末に来る予算の突き上げ、今思うとこれ以上ないプレッシャーと過酷な職場環境でしたね。
自分も相手もお互いが笑顔になれる仕事
普通に進学して就職。長男として、あとの弟たちが追いかけて来られる様に、真面目にそつなくここまでは進んできました。
就活時にはそんな事まで考えなかったのですが、こんな歳になってあらためて真剣に考えました。
仕事ってなんだろう?自分も相手もお互いが笑顔になれるような仕事ってないのかな?
自分が頑張って勉強したり、努力した結果が、相手に喜ばれ、その事でまた自身もうれしく思える。
純粋にそんな仕事がないかと考えていく内に、医療の道がそうじゃないかと考える様になりました。
また自分が医療の道を目指すことで、世話になった両親に恩返しができるのでは、という思いもありました。
医療の道を目指すも・・・
と言っても、この歳から医者にはなれないし…
その頃読んだ本に「人間にはもともと自分の体を治す機能が備わっている」とあり、自然治癒力を活かす東洋医学に興味を持ちました。
急いで資格を取ろうと調べましたが、当時の国家資格の学校に入るには、整骨院で働いてその先生の紹介状がないと難しいという閉ざされた環境でした。
いくつか飛び込みでお願いするも、なかなか思うようにいかず、たまたま後輩の友人が鍼灸院で勤めていることを聞き、その紹介から道は開けたのです。
年収500万から月収5万へ
ほどなく退職し、大阪市内の整骨院で修行する事に。
毎日朝7時に出勤して準備。午前中仕事して、昼から夕方まで学校。授業が終わり帰ってきてまた仕事に戻る。閉院後22時頃まで練習する。自宅に戻っても夜中2時までは勉強。
院の上に住み込みで、寮生活のような感じでした。(笑)

転職雑誌に取り上げていただきました。

2002年 B-ing
給料は考えないようにはしていましたが、朝から晩まで働いて最初の年の月給は5万円。
時給に換算したら300円ちょい。これも今なら完全アウトですね。
どのような想いで治療をしているのか?
どうやったら患者さんが不満なく…
当時の私の仕事は電気あてと患者さんの誘導。院長や他の先生、はては10歳年下の免許持ちの後輩にも気を使いながら、患者さんの体調、要望を聞いて毎日100人以上の患者さんの対応していました。
どうやったら患者さんが不満なく、喜んでもらえるかを第一に考えて。
一番下っ端の仕事ですが、自分がこの場をコントロールしているというプライドを持ってやっていましたから、いい加減な対応をする先生には腹が立ちます。
10歳下の後輩は免許は持っているけど、人によって態度は変えるし、気持ちも全然入っていない。そんな様子を見てイライラしながら、いつもの電気あてをやっていると・・・
私、あの先生にあたりたくないねん。
この前みてもらったけど、全然アカン。
だから今日は他の先生にみてほしいねん。
と患者さんの本音が、あちこちから。
そりゃそうですよね。
営業の時もそうでしたが、商品を買っていただくには、売る人の人間性がとても重要だったんです。
猛勉強と猛練習
一日でも早く治療家の階段を登るため、さらに猛勉強と終わってからの練習に明け暮れ
試験前は徹夜に近い状態が何日も続きました。そんな毎日は本当に大変でしたが、その頃の勉強が今日の治療の基礎になっていると思います。

当時のノート
そして3年がたち無事、国家試験にも合格。
治療家になっても日々の練習と勉強は欠かさず、それにともない院のポジションもあがっていきました。そして5年目に分院の院長に抜擢

分院の院長時代
裏ミーティング
毎月おこなわれる全体ミーティングで院長は売上げ、数字のことばかり。患者さんのことは置き去りになっていました。
売上は大事だけど、やっぱり患者さん本位で物事を考えていかないといけないと思っていましたので、院長が帰ったあとに現場のスタッフだけで裏ミーティングをおこないます。
院長はああやって言うけど、患者さんの事を考えたらそのままできない。
数字を落としている本当の原因を探すため、営業時代に培った分析力で、毎日の数字をデータとして分析し、患者さん本位になるような翌月の指針をたてる。
患者さんの事を第一に考えて、それに数字の裏付けを見ていくと翌月、ホントに売上げ上がるんですよね。
2007年、都島で開業
10年が過ぎ、多くの方の助けによって、長年のこの世界に入った時からの夢であった「開業」を2007年10月に大阪市都島区ですることができました。

(開業時2007年 茶髪ですね)
最初は不安も多かったですが、地域にも多少貢献できるような治療に育ち、売上げも順調に上がっていきました。
保険治療の限界と葛藤
スタッフも雇い、順調に患者さんも増えてきていたのですが、心に少しひっかかることが
保険での治療の限界。
あいまいな請求に対する葛藤。
多くの患者さんを診れば診るほど、保険の制度上では診れないような症状の方が痛みを訴えてきます。
本当はこうやって治療したほうがいいんだけど、そんなに一人に時間もとれないし、ベストな機器も使えない。
そんな気持ちで治療をしているうちに、何のために自分が勉強して技術を磨いてきたのかと考えるようになりました。
自分が努力して学んできたことを出せずに、患者さんも不満が残る。
やっぱり、最高の施術を最高の環境で提供したい。
自費の治療に変えて、思うぞんぶん治療がしたいという思うようになり
2016年、自費に変える決断を
自費に変えることをお知らせすると
「そんなん、高くて通われへん。」と離れていく患者さんもいました。
しかし私の想いに共感していただける患者さんも多く残っていただけました。
合わせてホームページを一新したこともあって、これまでにない遠方からも患者さんも来られるようになりました。
脳梗塞の後遺症、手術を悩む患者さん
遠方から来ていただいた患者さんのお悩みを聞くと、重度な痛み、悩みで苦しむ方がとても多いことを知りました。
脳梗塞の後遺症で困っている。
膝の痛みで手術をするかどうか悩んでいる。
きちんと向き合った治療をして欲しい。
これまで保険治療のスタイルではとても対応できなかった患者さんを、やっと診ることができるようになったのです。
少し遠回りした治療家人生ですが、今にしてやっと自分の思うような院になれたと思います。
やりたいことはなんですか?
私の院には玄関に自作の「ガンダム」のプラモデルが飾ってあります。
なぜか?と言うと、大人気もなく私の趣味というか好きな事なんです。
患者様にも好きな事、やりたい事ってあると思うんです。
今は痛みがあってできない、不安があってそれどころじゃないって人もいると思いますが、その痛みを取ってやりたい事があるんじゃないですか?
私はこう考えます。
治療する事が目的ではなくて、やりたい事をするための手段が治療なんです。
自分のやりたい事が出来る立場や環境になったとき、人は活き活きして本当の笑顔になると思います。
これまでも多くの人に支えられてここまで来ました。20年たった今でも試行錯誤しながらやっています。
こんな私ですが、これからも少しでも多くの人のやりたいこと、好きなことに挑戦できる手助け、応援ができたらいいなと考えています。
さかとう整骨院 阪藤賢一
(柔道整復師 阪藤賢一 監修)